免疫は「二度なし現象」ともいわれます。これは一度感染した病原体には二度と感染しない、もしくは、感染しても軽症ですむという意味です。ワクチンはこの二度なし現象を利用しています。エドワード・ジェンナーは、天然痘という非常に致死率が高い感染症に対して、初めてワクチンを開発したことから、免疫学の父と呼ばれています。そして、この天然痘に対するワクチンの開発が免疫学の始まりとされています。
エドワード・ジェンナーが天然痘のワクチンを開発した経緯について、次のように伝えられています。18世紀のイギリスのバークレーで開業医をしていたジェンナーは、牛の乳搾りを仕事にしている女性たちが「牛の天然痘(牛痘)に感染した人は、天然痘には感染しない」という噂話をしていることに興味をもちました。この牛痘という病気は、もともと牛の病気ですが人にも感染します。しかし牛の病気なので人に感染しても軽症ですみます。そこで、わざと牛痘を人に感染させれば、天然痘に罹らないのではないかと考えたのです。
1796年の5月14日に、牛の乳搾りの仕事をしているサラ・ネルムスという女性の腕にできた牛痘の病変部位から膿をとり、これを8才の男の子ジェームズ・フィップスの腕に接種しました。9日後にフィップスは、寒気を感じ食欲が低下しましたが翌日には回復しました。同じ年の7月に今度は牛痘ではなく天然痘患者の膿を、この男の子に接種して天然痘に感染するかどうかを確かめたところ、天然痘の症状は全く現れなかったそうです。このように牛痘に感染した患者の膿を使う天然痘ワクチンが初めて開発されたのです。この方法は現在では種痘と呼ばれています。
このジェンナーの話ですが、日本では戦前や戦後すぐの頃には「ジェンナーは我が子を実験台として使った」と教えられていたそうです。しかし、実際に牛痘を接種したのはジェンナーの息子ではなく、ジェンナー家で働いていた使用人の息子でした。フィップスで成功するのを確認してから、ジェンナーは次男のロバートを含む8人の子どもに対して種痘を接種したそうです。
医学の歴史は古く、古代ギリシアのヒポクラテスが医学の父と呼ばれるように「医学の歴史は数千年ある」といわれます。しかし18世紀にジェンナーがワクチンを開発したことが免疫学の始まりとされることから、「免疫学には数百年の歴史しかない」といわれることもあります。ところが免疫学の歴史はもっと古く、古代から人は免疫という現象を知っていました。
まず免疫という言葉の起源について書きたいと思います。「免疫(immunity)」の語源となった言葉は古代ローマで使われていたラテン語の「immunitas」や「immunis」とする説があります。これらの言葉は、当時は現在の免疫という意味ではなく「義務を免れる」という意味で使われていました。中世になると教会の財産は税金などを免除されるという意味でも使われていたそうです。つまり教会の所有する建物や持ち物は「immunitas」(税金がかからない)という意味で、この言葉を使っていたそうです。このように、免疫の語源となった言葉は、今とは随分と異なる意味で使われていました。そして14世紀になってようやく免疫の語源となる言葉が「ペスト(疫病の一つ)から免れる(免疫)」という現在とほぼ同じ意味で使用されるようになったといわれています。ところが、もっと古くから、この語源となる言葉が、現在の免疫と同じ意味で使われていたとする説もあります。それは、2000年ほど前に古代ギリシアで書かれたファルサリア(内乱)という叙事詩で、詩的な表現としてヘビ毒に対する抵抗性の獲得について「免疫」の語源の一つともいわれる「immunes」というラテン語が使われていたとする説です(注1)。現在のように「免疫(immunity)」という言葉が、「以前に感染した病気から免れると」いう意味で積極的に使われるようになったのは19世紀からだというのがもっとも広く認められています。いずれにしても「免疫」という言葉は2000年ほど昔から使われ、現在とは違い意味で長く使われてきたのですが、100年~200年ほど前に現在とほぼ同じ意味で使われるようになったようです。
言葉とは別に免疫の二度なし現象は古くから知られていました。現在の私たちは毒と病気体を区別していますが、古代では感染症も毒の一つだと考えられていました。少量の毒を接種することで毒に対して抵抗性ができる(免疫ができる)ことについては、紀元前1世紀頃の小アジアにあったポントス王国の国王であったミトリダテス6世による記録が残っています。実際に免疫は微生物だけではなく毒に対してもできるので、この記録も免疫現象の一つとして捉えることができます。毒としてではなく、実際の感染症についての二度なし現象の記録も古いものがあります。年代が特定できる最も古い二度なし現象は、紀元前5世紀に、古代ギリシアの歴史家のトゥキュディディスが「戦史(歴史)」に書いています。
この「戦史」には、古代ギリシアのアテナイで流行した疫病について書かれています。この疫病が何だったかについては色々と説がありますがおそらく腸チフスではないかと考えられています。この疫病の説明について、戦史の第二巻の51章で次のように書かれています。
ー この病気から一度逃れた者たちは、再びかかることはなく、もし再び発病したとしても、何も恐れることはなかった。このようにして、彼らは自分たちが安全であることを確信し、自らもまた他の者たちも病気を患って生き延びた者たちをより一層喜んで迎え入れ、また、他の者たちから再び感染することを恐れていた。ー
このように「この病気から一度逃れた者たちは、再びかかることはなく、」と書かれていて、当時の人たちが、一度感染した病気には再び感染することがない二度なし現象を知っていたことがわかります。
この「二度なし現象」の記載は古代ギリシアだけではなく、古代のインドにもあったそうです。天然痘や病気をつかさどるインドの女神としてマリーアンマンが知られていますが、これは神話が書かれた時代に既にインドでは天然痘があったことを意味しています。天然痘の起源はよくわかっていませんが、およそ紀元前10世紀頃のインドではないかと言われています。そして紀元前に書かれた古代インドの聖典であるアーユルヴェーダには、現代では「人痘」として知られる天然痘の予防ワクチンの方法が書かれていたとする説があります(注2)。そして、この人痘こそが、ジェンナーが開発した種痘以前に使われていた天然痘のワクチンであるとされています。
インドで行われていた人痘法は、イギリスの東インド会社で外科医として働いていた、ジョン・ゼファニヤ・ホルウェルが、1767年に書いた「An account of the manner of inoculating for small pox in the East Indies(東インドにおける天然痘の接種方法の報告)」で紹介されています。そこには次のように書かれています。
バラモン達はまず、男性には手首から肘にかけて、女性には肘から肩にかけて接種場所を決めます。そして布を使って接種する場所を数分ほど丁寧にこすります。その後に針で撫でるように優しく傷をつけて僅かに血が出るようにします。そうするとバラモン達はリネンの二重布に包まれた一本の糸を取り出します。この糸は、前年に人痘をした人の傷口の膿をつけたものです。バラモン達は取り出した糸に数滴のガンジス川の水を垂らして湿らせると、先ほどの血が出ている接種部位につけて包帯で糸と接種部位を6時間固定します。6時間後に包帯を取って糸が自然に落ちると天然痘に対する予防ができるそうです。
この方法は、天然痘の患者の膿を直接使うのではなく、しばらくの間おいてから使っているので、その間に、ウイルスが不活性化していると思われrます。ですので、このインドの人痘は、現在で言うところの不活化ワクチンに近い方法になります。インドで本当に天然痘の予防接種が古代からされていたのかについては議論が分かれていますが、他にもいくつか記録があることから、少なくとも18世紀の中頃までにインドで予防接種がされていたのは事実とされています。
一度感染した病気には二度と感染しないという現象については、他にも多くの文献が残っています。「天然痘と麻疹の書」という書物を書いたアル・ラーズィー(865年〜925年)と呼ばれる人物も天然痘に一度感染すると二度と感染しないことを述べています。そしてその理由として、天然痘に一度感染すると血液の湿度が低下してしまうことが原因だと説明したのです。ラーズィーの説では、天然痘は湿度の高い血液にしか感染できないとされていました。そして、血液の湿度は歳をとるごとに減少するとされていて、天然痘に感染することでも血液の湿度が大きく低下すると考えていたそうです。そのため、天然痘に感染すると、血液の湿度が低下するので、二度と天然痘を発症しないと説明されていたそうです。もちろんこの説は現在では間違いだとわかりますが、少なくとも当時は天然痘に対する二度なし現象が広く知られていたことがわかります。現在のような微生物学や免疫学が発達する以前には、ラーズィーの説の他にも二度なし現象を説明する説がいくつか提唱されていました。18世紀のアメリカのサウスカロライナ州のチャールストンの医師だったジェームズ・カークパトリックは「Depletion Theory(欠乏理論)」を支持したとして知られています。この説では、天然痘が体の中で病気を引き起こすことに必要な成分が、天然痘により食べ尽くされて全て無くなってしまうので、一度天然痘に感染すると天然痘が体内で病気を引き起こす成分が無くなっているために(欠乏しているために)、二度と感染しないと説明されています。
古い文献の真贋については論争がありますが、ジェンナー以前に天然痘の予防接種がされていたことは事実とされています。ジェンナー以前にあったと認められている最も有名な方法は、中国で使われていた人痘法です。いつ頃から中国で天然痘の予防のために人痘が使われていたのかについても3つの説があるそうです。一つは8世紀に江南の趙氏という人物が人痘を施したという説です。そして二つ目の説は10世紀から11世紀にかけて徐州出身の女医が実施した説です。そして三つめの説は16世紀には既に実施されていたが誰が始めたのははわからないとする説です。中国での古くから使われていた人痘法にはいくつかの方法がありますが、ヨーロッパにも中国から伝えられていた方法は、天然痘患者にできた瘡蓋(かさぶた)を綿でつつみ潰して粉にしたものを健康な人の鼻に入れる方法です。つまり、インドの人痘法と同じように、中国でも天然痘の患者の膿をすぐに使うのではなく、瘡蓋になって乾燥させたものを使うことでウイルスを不活性化していたようです。この中国の人痘法がヨーロッパで実施された記録が少しあるそうですが、数回実施され後は、あまり実施されなかったそうです。1744年に中国から来日した李仁山が長崎で人痘を施したことが日本での最初の人痘接種といわれることもあります。この1744年でもジェンナーが種痘を開発する半世紀ほど以前になります。
ジェンナーは、このような古くから知られていた「二度なし現象」を知らなかったのでしょうか? 実は、ジェンナーはこの「二度なし現象」を以前から知っていました。それどころか天然痘患者の膿や瘡蓋を用いた「人痘」を子どもの頃に受けていたのではないかといわれることもあります。そして、牛痘を用いたワクチンを開発する以前は、「人痘」を多くの人に接種していたことも知られています。このジェンナーも知っていた「人痘」を、イギリスに伝えたのがモンタギュー夫人として知られるメアリー・ウォートリー・モンタギューと呼ばれる一人の女性です(モンタギューについては「科学史から消された女性たち(免疫学編)」に詳しく記載しています)。モンタギュー夫人は、当時のトルコで広く実施されていた「人痘法」をジェンナーが生まれる20年ほど前にトルコからイギリスに伝えました。そして、モンタギュー夫人は1721年に医師に頼み自分の娘に人痘を接種させました。その翌年の1722年の4月17日には、イギリス国王ジョージ一世の孫娘である1歳のアメリア王女と9歳のキャロライン王女に人痘が接種されました。その後も、人痘法はイギリスの医師の間では広く行われるようになっていました。このモンタギュー夫人の話は海外では広く知られていますが日本ではあまり知られていないようです。
このように王女たちが人痘を受ける前には安全性を確かめるための臨床試験も実施されていました。1721年の8月9日の朝に3人の女の囚人と3人の男の囚人に人痘が接種されました。この6人はいずれも一時的な発熱はありましたが回復しました。そして一ヶ月後の9月6日に解放されています。子供への接種の安全性を調べるためにウエストミンスターセントジェームスの孤児院にいた孤児たちにも人痘が施され安全性が確かめられました。これらの臨床試験では誰も亡くならなかったそうです。このような人痘の安全性だけでなく、有効性を確かめるために、先ほどの人痘を接種した19歳の女性に、天然痘患者のベッドの側で寝泊まりさせる実験も実施されていました。この女性は6週間の間も天然痘の患者とともに暮らしましたが天然痘を発症することはありませんでした。このように人痘の有効性が確認されたのです。この人痘についてはやはり危険性があって、イギリスでその後に実施された人痘接種での死亡率は2%ほどだったといわれています。ただイギリスで実施された人痘接種は天然痘患者の膿を直接つかっていたそうです。一方で中国やインドで実施されていた人痘法では膿を乾燥させてつかっていたので人痘が危険だったとするのは中国やインドやトルコから人痘がイギリスに伝わる時に誤った方法で伝えられたのが原因なのかもしれません。
モンタギュー夫人が人痘法をイギリスに伝える以前にも、幾度も、人痘法はイギリスやその他のヨーロッパの国々に伝えられていたそうです。モンタギュー夫人がイギリスに伝えた人痘法はオスマン帝国からイギリスにもたらされましたが、元々は1660年にギリシアからオスマン帝国に来た一人の女性が伝えたという記録が残っているそうです。しかしその女性の名前は残っていません。人痘の方法は古代のインドや中国で始まり、それが広く世界各地に伝えられ民間療法として広く伝えられていたのかもしれません。実際にモンタギュー夫人が人痘をイギリスに持ち帰った翌年の1722年に、イギリスのハーバーフォードウェストに住む90歳の老人が子供の頃に人痘を受けていたとの証言が記録されています。そしてその老人の話では母親も人痘を受けていて、母親が我が子に人痘を受けさせるようにしたそうです。このように天然痘のワクチンの普及は、実は歴史に名前が挙がることがない女性達によって長く伝えられ、そして多くの子ども達の命を救ってきたようです。また、「痘を買う」という言葉がジェンナーが種痘を開発する以前からよく使われていて、この買った痘を人痘に用いたとされていたことも、人痘が種痘以前にイギリスで使われていた証拠の一つとされています。
18世紀の初頭には、アメリカでも人痘接種の試みがありました。1721年に天然痘患者を乗せた船がアメリカに入港したために、アメリカでも天然痘が流行しました。医者のサブティカル・ボイルストンは6才の息子などに人痘の接種を開始して、人痘を接種することでボストンでの天然痘による死亡率を14%から3%程度へと減少させることに成功しています。
ジェンナーは1796年に8才の男の子を実験台として種痘法を確立しましたが、このような実験は現在では許されません。しかし当時のイギリスでは病気による死亡者が多く、平均すると寿命は40才程度だったともいわれています。つまり多くの人が感染症で亡くなる時代だったのです。日本も世界的にみても天然痘が非常に蔓延していた国で、1857年に来日したポンペ・ファン・メンデルフォールトは、当時の日本人の3人に一人は顔に天然痘に罹ったことでできる痘痕があると記載しています。そのため、昔は「痘瘡すむまで我が子と思うな」と言われていました。このようにジェンナーが種痘法を確立した頃は天然痘などの感染症で亡くなることが多かった時代です。ですのでジェンナーが実施した種痘の接種に参加することは、現代でいうところのがんの免疫療法のような最新の治療法による治験に参加するのと同じで、当時の最新の治療を受けられるという意義があったのかもしれません。
ジェンナーが開発した「種痘」と、それ以前に知られていた「人痘」は、何れも同じ「二度なし現象」を利用したものです。これまで「種痘」と「人痘」には大きな違いがあって、「人痘」では天然痘患者の膿を使うために「人痘」をしたことで天然痘に感染し死亡することもあり危険なのに対して、「種痘」では牛痘という重症化しない病気の膿を使うことから天然痘に感染する恐れがなく安全であるために広く実施されるようになったと説明されてきました。実際に人痘をしたことで2%や3%の人が亡くなったとする記録もあります。ところが先ほど説明したようにインドで実施されていた人痘は非常に安全に接種されていたことを考えると、実はモンタギューが最初にイギリスに伝えた人痘も非常に安全だったのかもしれません。種痘は膿を次から次へと接種して行くことができるのに対して、人痘は前年の患者の膿を使わなくてはいけない不便さがあります。人痘法が過って伝えられたことや利便性などの問題から、人痘に変わって種痘が広まったのかもしれません。実際に、インドや中国で実施されていた人痘法について教えてほしいと頼んだところ、秘密なので方法は教えられないと断られたとの記録もあるそうです。
「種痘」は、1805年に、広東のイギリス商館医によって中国に伝わり、その2年前の1803年には長崎の出島でオランダ商館長のズーフから日本に情報が伝わりました。一方で1823年に来日したシーボルトは人痘を実施ましたが失敗に終わったする記録があります。そしてその後の1848年に来日したモーニケが実施した種痘が上手く効果が現れ日本に広まることになりました。
ジェンナーを免疫学の祖として世に知らしめたのは、ルイ・パスツールと云われています。パスツールはニワトリコレラのワクチンや狂犬病のワクチンを初めて開発したことでも知られています。パスツールはこのような感染症に対するワクチンを初めて作った人がジェンナーだと紹介したそうです。何故、パスツールはジェンナーの話を持ち出したかというと、それは、パスツール自身が開発したワクチンという方法は100年以上前から使われている方法で、以前から使われている安全な方法だと多くの人を安心させるただったと説明されることもあります。現在では予防接種法はワクチンとして知られていますが、これは最初に予防接種法を開発したのはジェンナーであって、ラテン語で雌牛のことをVaccaというためワクチン(Vaccine)と名付けられたとされています。
ジェンナーが天然痘ワクチンを開発した経緯は「天然痘ワクチン開発の真相」をご覧ください。
2022年12月6日改訂
2023年1月16日改訂
(注1)現存するファルサリアの叙事詩の写本中には、そのような表現はないとする指摘もあります。
(注2)最古のアーユルヴェーダの写本には該当する記述がみあたらなかったとする記録もあり、後世の人が書き足したとの推測もあります。
参考文献
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Damaso CR. Revisiting Jenner's mysteries, the role of the Beaugency lymph in the evolutionary path of ancient smallpox vaccines. Lancet Infect. Dis. 2018 18: e55-63
Janner E. An inquiry into the causes and effects of the variolae vaccinae: a disease discovered in some of the western countries of England, particularly Gloucstershire, and known by the name of cow pox. Medicine in the Americas, 1610-1920 Springfield: Re-printed for Dr. Samuel Cooley, by Ashley & Brewer, 1802.
An early American smallpox vaccine based on horsepox. NEJM 377:15, 2017
Jenner's cowpox inoculation. British Medical Journal. 2: 251-256, 1951
戦史(歴史)トゥキュディティス
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